2011年09月27日

デジタルデバイスの未来3

これまたつらつらと時間をかけて訳のわからん文章を書いてしまいました。デジタルでバイスの未来という題名からかけ離れたないようですが、第三章です。

■デジタルデバイスの未来3 -マスメディアとその後-

マスメディアという言葉の定義は本来、テレビやラジオ、新聞等を意味するのであろうが、もっと大きな流れで見た場合、特に文字を使ったメディアで考えれば長久の歴史を持つ。過去まで遡って情報の複製技術というものを考えた時、思い浮かぶものは木版印刷であろう。これがいつ発明されたかは定かではないが、法隆寺の百万塔陀羅尼などは遠く奈良時代まで遡り、また当然大陸においてはそれよりも更に昔より存在したものであると考えられる。木版印刷によって大量に刷られた文章はいったい何であったかを考えれば、それは教典である。余談ではあるが、欧州でグーテンベルクの印刷機がこの世に現れるまでは、東アジアの情報量は欧州のそれを凌駕していた。それは木版印刷(一部では活版もあったそうだ)による大量の書物の印刷であり、欧州において牧師達が羊皮紙に筆記によって聖書の写本を作っていたよりも遙かに効率的な情報複製手段が当時の東アジアには存在していた。その後欧州では活版印刷の登場により、また活版印刷と親和性のあるアルファベットという表音文字を使用していた事により活版に不向きな表意文字で停滞を余儀なくされた東アジアをしのぐ情報爆発が起こった。大文字含めてわずか100種類の文字を操るだけで、あらゆる文章を大量に印刷できる版盤ができる点に欧州における印刷のアドバンテージがあったのだろう。プロトコルの単純化は情報流通の汎用性を大いに高める結果になることは、現在の0と1のみのデジタル技術がよく表しているとも言える。
 

ルネサンス以降欧州の発展が凄まじかったのは、ひとえにこの情報爆発によるところが多く、その後のアヘン戦争等に代表されるアジアの没落の背景には欧州との情報格差があったのかもしれない。その中で日本が最初に欧州にキャッチアップできた理由は、仮名という表音文字が使用できたおかげもあるのではないか。印刷のみに留まらず、電信を含めた通信手段においても表音文字は表意文字よりも遥かに親和性があり、情報流通という点で優位だったことが19世紀以降のアジアの没落と、その中で日本の勃興を顕著にしたというのはあながち間違いでもないように思われる。20世紀終わりにGUIの発達したパソコンが世界に出始めた時、時の中国の指導者が「漸くこれで中国の(漢字)文明に世界が追いついた」と言ったそうだが、これはある意味中国の指導者らしい(強がりな)言い回しで、情報革命によって表意文字という重い足枷をつけられた漢字圏の中華文明が漸く世界にキャッチアップできる土壌が整ったことを心のそこから歓迎したのではないか?そして同時に中国の経済発展が爆発的な勢いを持ったのはこれらPCの登場と機を同じくしているのである。以上メディアの面から文明間競争を捉えるとなかなか興味深いものがある。
 
いずれにせよ文字の歴史の中で大量印刷物の最たるものはバイブルであり、仏教経典や古代中国の儒教の書、そして何より各王朝の編纂した歴史書などこそがマスメディアの一番原始的形態であろうし、そして原典である。以降様々な技術の発達によって、「大量に素早く生産する」という意味でこれらメディアは一大産業を形成し、時としてその時代の権力と密接に関わってきた。そこには常に情報発信側のプロと、受け手側の一般層という棲み分けがあったし、これは古来よりつい最近、ネットがこの世に現れるまで基本的構造は殆ど変わることはなかった。人類は有史以来マスメディアを使いこなしながら価値観の一元化をすることによって文明を築き上げてきたといっても良い。
 
共通の歴史とそれに裏打ちされた思想というものが文明の文明たる由縁になっただろうし、それの違いによって戦争も起こった。また真理を探究する人類文明の旅はマスメディアの存在あったればこそ成立したものといっても過言ではないだろう。各々の宗教が初めそれをめざし、そこから生まれる教相判釈等による論理的な思考は次第に自然科学、論理学、哲学を生み出し、人類の文明を発展させることになったのは。一つには共通の言語、教育、論理体系等を如何に多くの人々が共有しているかに依っている。その内容がどのようなものであれ、文明内での共通の「物の考え方」「重きをおくべきもの」「常識」といったものが無ければ、そもそも人々のコミュニケーションさえ深化することはないのである。慣習、価値観、常識といったのものの一元化があって初めて文明はより高みを目指すことになる。その為に大量に共通の言語で書物を印刷することが非常に重視された事は各文明に共通することであり、科学や思想というものはマスメディアによる情報の大量流通と一元化がなければここまで発達することはなかっただろう。
 
かつてギリシア、ローマ時代に育まれた自然科学の芽がその後の欧州の中世的停滞の中、一度は大きく後退してしまった経験がある。様々な要因がそこにはあるのだろうが、一つには国家や文明の英知を大量に複製する手段が無かったからこそ、時代の変遷とともに情報の断絶があったのではないかという仮説を立てることもできる。かつての文明が図書館というものに非常に重きをおいていたのは情報複製手段が限られていたからであり、逆にその図書館がその文明の衰退と共に灰燼に帰すれば文明の英知も途絶えることを意味していたとも言える訳で、バックアップなき英知の保管が非常に困難な時代だったからこそ欧州においては中世的停滞が起こってしまったとも言えるのではないだろうか。中世時代に停滞した英知はグーテンベルクの印刷機によって再び掘り起こされ、長く文明の底に沈殿していた状態から、再び攪拌し滞留するようになりルネサンス以降の勃興を演出したと捉えるのも面白いかもしれない。
 
さて、更に俯瞰して人類の歴史を眺めて見たとき、情報の一元化の最たる媒体とは一体なんであろうか。それは恐らく通貨ではないだろうか。価値そのものを単一のメディアにし、大量に流通させた事が人類の発展に大きく寄与してきた。通貨をマスメディアというと誤解があるだろうが、大量に作られる共通の媒体という点で考えれば、通貨こそが最も強力なメディアであることは疑いない。数字という論理的に定量化されたものに、ありとあらゆるものの価値を当てはめ、交換できるシステム。これ程単純且つ人類に大きな影響を及ぼしたメディアはないかもしれない。20世紀末までの人類は、この通貨も含めたマスメディアによって大いに発展し、その発展における頂点を迎えていたと言うこともできるかもしれない。
 
そして20世紀末から21世紀初めにこの限界までに発展したマスメディアにより情報が一元化された世界にネットが産み落とされた。それを一体どう捉えるべきなのだろうか。人類による価値の一元化という側面から通貨も含めたメディアの進化の大局を俯瞰することこそが、今興ろうとしているネット社会の行く末を紐解く鍵になるのかもしれない。一つ言える事があるのなら、デジタル化によりあらゆる情報が0と1になるという明確なプロトコルができた事、これが一つの頂点なのではないかと思う。通貨がなぜあれほど強力なメディアかといえば、通貨自体が定量化できる数値という至極明白なプロトコルのみの存在だからだろう。それはデジタル化された情報がまさにそれで、0と1にすべての情報を押し込んでしまった点で究極の一元化と言う事もできる。現在ネットによって起こっている現象はマスメディアによって紡ぎ出され、デジタルという究極の一元化へ向かい集約した「後」の世界と言うことができる。ここから先は究極に一元化されたデジタルという人類共通のプラットフォーム上で一体何が起こるかということであって、これは人類史上の一大転換点であり、またここから先は過去の歴史とは全く違う世界が始まるということでもある。マルチメディアと騒がれた前世紀末、人々はこの共通のプラットフォームが実現する未来を非常に華やかな明るいものとして捉えていたのは間違いないだろう。世界中か完全に繋がれた世界では戦争もなく、権力側から発信されるものを受け取るだけという訳でもなく、個々人が情報を発信しお互いに理解しあい平和が訪れると。しかし現実はどうであったかと言うと、もちろん人類社会にとっては多大な恩恵を得た部分もあったが、同時に大きな混沌と闇を抱えることにもなったと言える。
 
非常に曖昧な予感で物を語ることになるが、自分の印象を二三語るのであれば、、例えばTwitter上の散文的なTLを多くの人々が眺める行為そのものを俯瞰した時に何故か「バベルの塔」の故事を思い出すことがある。「かつて言語が一つだった人類が天まで達するほどの巨大な塔を作り始めた。神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉 を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった」。旧約聖書の一説であるが、人々が集まり天まで届く高い塔を作る姿は、ネットによって完全に繋がれた現在の世界を何となく思い起こさせる。高みを目指すその姿はまるで、人々がお互いに理解しあえる理想の社会を夢想したかつてのネットに熱狂した人々に見えなくもない。ただコミュニケーションをすればするほど、お互いのことを知れば知るほど人は孤独になり、対立し、不信用が醸成され、また価値観も多様化し、やがて意味、脈絡のない混沌とした世界に落ちていく。何故かそのような未来をぼんやりと想像してしまうのである。
 
また別の例えでいえばアルツハイマー型痴呆症が発症する際に、人間の脳細胞が爆発的に周囲と ネットワークを張り巡らした後、許容量オーバーになりアポトーシスする現象も何となく思い起こさせる。マスメディア中心の社会では個人は情報の受け手になるだけで受ける受けないは個人の自由に任せられていた。情報を受けたくない時はテレビを消せば良いのである。ただネット社会では受けるだけでは済ませられない関係性ができあがる。これを象徴することとして、中高生の携帯メールでの「5秒ルール」などがその最たる例なのではないか?またtwitterやfacebookで競い合うようにフォロワーを増やそうとする行為などは、深いコミュニケーションというよりも友人とされる数を競いあい、脈絡のないコミュニケーションという名の作業に自分を縛り付ける行為になりはじめている。このような不毛なまでの評価獲得競争はネット社会の至るところで見ることができる。「いいね」ボタンの押し合い。PVを稼ぐための工作等々、いたるところで起こっている現象は情報の暴走そのものであり、またそのことが目的化してしまっている。かつてリチャードドーキンスが「利己的な遺伝子」でミームという言葉を使った。人間自体が情報の「乗り物」でしかなく、情報は自己複製の為に人間を宿り木にしているにすぎないという論であるが、、この評価獲得競争を見るにつけ、その論もあながち間違いではないと思わせるものがある。またネット上では無反応、無視される事の孤独よりも、自分に対して否定的な反応をされたほうが、いわゆる炎上したほうが満たされると感じることがある。これこそまさに、情報に操られた人間をイメージさせるにはぴったりの例ではないだろうか。
 
炎上という言葉が出たが、この現象もネット社会にあって初めて出現した現象といってもよいかもしれない。人と人とのネットワークが、ある事象において飽和し、過剰反応になって現れる訳だが、それはまるで体内に異物を取り込んだ時のアレルギーにそっくりでもある。一見多様な情報に触れ合えるように見えるネットの社会も、非常に逆説的ではあるが、情報の選択ができるようになってしまった為に、実は人々は自分にとって心地よい情報にしか触れ合わず、最終的に非常に視野が狭くなっているともいえる。炎上に関しても、自分の嗜好やあるいは自分の持つモラルの基準というものが非常に特殊化しながらもネット内でふれあい作られるコミュニティーはこの辺の価値観が同じ人が集まる為、いや集まったと思い込む為に、これらの基準を逸脱した人々を感情的に受け入れることが全くできなくなっているともいえる。また互いにコミュニケーションをする内に熱くなり、互いを知りすぎるが故に、いや知りすぎていると錯覚するが故に必要以上に憎み合うことにもなる。そこには当然のように誤解の増幅があり、人づてで伝わる噂は物事を誇張して伝わり、その都度憎しみは増幅して膨れ上がる。ようは昔であれば宗教戦争のような事がネット上ではまるで日常茶飯事のように様々な場所で様々なテーマで起こっている。このように非常に殺伐とした世界である為に、人々は余計に孤独になり、また様々な場所で作られたマイクロコミュニティは場合によってはカルト化する可能性を秘めている。これは将来的に脈絡のない、動機の不明瞭な犯罪が増える可能性も示唆しているし、実際増えていると捉える事もできる。
 
さて、それでは先に最強のメディアといった通貨を一体どのように考えるべきなのだろうか。価値観の一元化、数値による定量化が通貨の大きな強みである。これはよく考えれば、現在デジタル化によってあらゆる情報が0と1に置き換えられたネット社会に近いものを通貨は昔からある程度実現していたと言う事もできる。通貨というものをネット内で飛び交う言語や映像のプロトコルに置き換えるのであれば、ネットが発達した世の中でも、その存在が消えることはないが、逆に既存の価値設定における通貨の役割は大きく変わるものと思われるし、それを受けて大きな混乱が発生する可能性は大きいだろう。これは前章でも述べた通り、例えばデジタルデバイスとネットの発達により情報の複製が誰にでもできるようになってしまった事を起因とした制作者側と消費者側の不毛な戦いもそうだろう。それどころか人々が求めるものも通貨から離れ始めている点も大きい。人々の欲求においてお金では叶えられない事が非常に増え始めた。例えば先にあげたネット上の評価獲得競争などがそれである。また逆にネットのお陰で金を使わずに世界の英知に接することが可能になった点も今までの経済活動ではありえない方向性でもあり、通貨価値の無意味化ともつながっている。わざわざ金を払わずとも知りたいものは知れて、見たいものはみれる状況というのは旧来の経済からは逸脱した現象である。
 
それと現在のマーケットにおけるあまりに回転の速い投機的な動きもこのネット化における価値崩壊の一形態かもしれない。人々の感情のみによって生まれた怪物のようなマーケットの動きに、当の人々が惑わされ、一喜一憂し、あるときには巨万の泡銭を手にし、あるときには全財産を失う、自らが作り出した情報に踊らされ、見えざる神か悪魔に翻弄されている。投機市場が刹那刹那の反応に終始している状況はまさにfacebookやtwitter内の化学反応にも似た情報爆発と収縮を先取りしていたとも言えるのではないか?
 
総じて言えば、このような「値段はあってないようなもの」といえる状況が非常に増えているのもこの世界の特徴なのかもしれない。大量生産によって生み出され、統一した価格設定になった商品はある意味マスメディア全盛の前時代における特徴的な価値基準だとすれば、これからの時代は全く違うやり取りが増えるものと思われる。とある人にとっては全くの無価値であっても人によっては幾らお金を積んでも変えられないほどの価値のあるものは多くなるだろう。特に情報分野(通貨、文章、音、映像)においては、そのものの価値というものは非常に刹那的、また局所的なものになっていく。同時に実際の物としての商品に関しても、世の中の大半の人々にとってはガラクタであっても、一部の人には垂涎のものという現象が其処彼処に現れてくるのが今の時代なのであろう。最早確たる値がつきそうなものというのは食料品と資源くらいになってしまうのではないだろうか。
 
以上マスメディアというものの歴史を振り返ることで、現在起こっているネット社会の現象と経済活動の変容を語ってきた訳であるが、これらの事象によって人類社会における最も大きな影響を受ける分野は労働、雇用と見て間違いない。既存のオールドタイプの組織はしばしばネット化の流れに立ち後れる。そこでは様々な葛藤が生まれ、これが解消できるには相当な時間が必要かもしれない。そして組織といえば、最も巨大な組織は行政である。そして行政というものは、そのほとんどが情報処理業務である。次の章ではこの大きな変動でこれら企業、行政等においてどのような変化が待ち受けているのかを語ろうと思う。
posted by mockmoon at 11:15 | TrackBack(0) | 日記
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