2011年09月15日

デジタルデバイスの未来 1〜2

Facebookのノートを使ってつらつら書き連ねた文章がありまして、、ただFacebookで書いてもFacebookやっていない人だと見れないみたいで(しかもfacebookのページはこちらからリンクも張ってませんし(^^、、、)、、原発関係の文章もFacebookだけだと見れないので、 http://genpatsu.sblo.jp というブログを新たに立ち上げてそちらに書いたりなんかしたりしまして、、まあこちらのブログに原発関係の話を書いても趣旨が違うのでブログを別にしたのですが、、「デジタルデバイスの未来」なる駄文に関してはこちらに投稿してみようかと、、一応、1〜2までは一気に書いたのですが、それ以降は、結構話がでかくなり止まっておりまして、、追々投稿しようかと、、まあ暇な方は読んでいただければ(^^

デジタルデバイスの未来1

-現在究極に近づきつつあるハード的なデバイスの進化-

近年facebookやyoutubeなどに代表されるサイトの出現はかつて夢見られたネット社会の最終形態を今現在世界が迎えようとしている事を意味している。というのも、恐らくネットワークトラフィックにおいて、あるいはCPUの処理速度において一般的に使われる最も能力を必要とするものは動画の送受信、編集やエンコード等であり、それがほぼ単独で可能になったスマートフォンの登場は文章、音、画像、映像といったメディアを全て自由に受信、視聴、録音、撮影、編集、送信できる環境を備えるに至っていると言える訳で、これはアランケイの提唱したダイナブックが漸く一般の人々の手の中に収まった時代になったといえる。

ここにおいて我々は次世代のデジタルデバイスについて考える時、ハードウェアにおいてはこれ以上のスペックアップの需要の余地は少ない考えるのが自然かもしれない。仮にiPhoneを例に考えるのであれば、このデバイスには自分を表現しうる全ての機能が既に備わっていると考えても良いだろう。HDのムービーを録画でき、そして再生できること、この機種単体でUstreamの実況を行うことができること。GPS情報を常に発信できる事等々、このデバイスの可能性は最早ダイナブックを超え始めている。

デジタルカメラの世界において、画素数が1000万画素を超えたあたりから、カメラのスペックは消費者の本来のニーズを越えた商品になり始めた。要するに表現者としての必要十分条件を超える商品になってしまったと言っても良い。現在はほぼ惰性的に画素数競争がメーカー間で行われているが、結局これは日本のメーカーの悪しきマーケティング戦略であり、ブームの終了と共に需要も少なくなってくると思われる。逆にデジカメはTwitterやFacebook上で盛んに写真付きのつぶやきが行われている現状において端的にそのニーズが表れるが如く、撮ったその場で配信する事に主眼をおくようになり、一部の趣味を除いて結局はスマートフォンの一機能に成り下がる流れなのかもしれない。

以上、ほぼ飽和状態まで発達したPCやスマートフォンはスペック的にこれ以上のニーズを見い出すことは難しい。敢て現在のデバイスに克服すべき点があるとするならば、それはバッテリー関連ではないだろうか、現在のスマートフォン(というよりも最早これはphoneではなくて、遥かに幅広い意味でのデバイスになっているが)において、液晶画面がつき、GPSとムービーによる録画とそのデータのネットワークへの転送が常に行われている状態で丸一日稼働可能なくらいバッテリーの持ちが良いデバイスが理想である。これが実現できた時、そのデバイスは人の外部記憶装置として、あるいはコミュニケーションデバイスとして、持ち得るハード的なスペックを完全に利用できると言える。丸一日自分の見聞きした物をスマートフォンのカメラがログとして記憶してくれるようになること、そしてそれを他者と共有できること。簡単に言えば、それがシームレスにできるハードとソフトというものが、これからデジタルデバイスの目指すべき未来と考えるが、それには現状最も足りていないものは電源なのである。

例えばiphoneにおいて一時セカイカメラというソフトが話題をさらったが、今ひとつ利用者が伸びない背景には、このソフトウェアが現在のiphoneにとってバッテリーのリソースイーターになっていう理由がある訳で、そのコンセプト自体に人々が魅力を感じても、実際に使い始めるとバッテリー切れの心配をすることになる為、徐々にこのソフトの起動を控えるようになってしまう点がある。利用者が丸一日バッテリー切れを全く心配することなしにこれらのデバイスを使用することができるようになるには、改善点として大まかに以下の二点が考えられる。

ひとつは長時間利用可能な大容量なバッテリーの出現、あるいは省電力のデバイスという方向性。もう一つはバッテリー自体のチャージ時間の短縮とガソリンスタンドのようにチャージをする場所の一般化である。前者は既存の技術の延長線上にあるものであり、後者は既存の技術の欠点を補完するものである。また細かい点ではあるが、ネットワークトラフィックの改善も課題であろう。現状、スマートフォンが多く流通することになり直面している問題として、ネットの渋滞が挙げられる。今後一層クラウド化が進む事を考えれば、現在の通信会社の設備投資ではとても追いつかない事態に発展することは容易に想像できる。海外では一度は止めた従量制を復活させる動きもあり、ここ暫くはこの問題は課題になるであろう。

ただいずれの問題にしても、これらは先の見える解決可能なものであり、大きな潮流の妨げになるとは思えないし、革新的なブレークスルーを必要とするものでもないだろう。とするならばやはりハード的な分野において発展の余地というものは今後は非常に限定的なものであり、またソフトやソーシャルネットのサービス等にしても、上記に書いたように人々のコミュニケーションツールとして文字、音声、映像をシームレスにやりとりできるという範疇を越えるものでない限り、これ以上の発展の余地はあまり残されていない。

ここで簡単にデバイスとしての能力を整理すると、文字、音、そして映像という3つの要素においてOutputである液晶画面等への再生とInputであるカメラ、マイク、そしてキー入力が備わり、そしてこれらのInput,Outputをネットを介してストレス無くやりとりできる時点で過去に提唱されたマルチメディアデバイスとしての全ての能力を満たしているとは言えるのであるが、現在、例えばGPS、ジャイロ、加速度センサー等がInputデバイスとして加わった事はある意味特筆に値する。特に位置情報に関しては人間の目、耳等のデバイスを越えたものであり、これに時間軸によるログが加わる事で客観的情報の取得が可能になった。自分が何時何処にいたのかを意識せずとも記録できるようになった点は革新的なことである。これらカメラ、マイク、GPS、ジャイロ、加速度センサーが常にオンになった状態で丸一日のログを取れるようになれば、例えば航空機のフライトレコーダーのように人間の主観を越えて一生の見聞きした記録から存在した場までを客観的に保有し、共有可能な状態になる。これらのことはストレージや上記の問題は多少残されているが技術的には既に達成可能なレベルになっていると言っても良い。

それでは以上挙げたもの以外で、デバイスの進化として残されたものがあるとするならばなんであろうか。これはよりフィジカルの延長線上に答えがあるかもしれない。リアルとバーチャルを繋ぐインターフェイス部分を考えれば、現在のデバイスは自他の目と耳の共有に集中しすぎている。要するにディスプレイ(映像、文章)と音声だけ、そしてこちらからデバイスへの入力は指(文章)がカメラ(映像)、マイク(音声)である。ここにはまだまだ多くの入出力の形態はあってしかるべきだし、革新の可能性が残っているとも言える。仮に筋肉の延長というものを考えるのであれば、それは遠隔操作のロボットであったり、クルマやバイク、あるいはマニピュレーター等とデバイスの統合がありうる。但しこれは法律的な問題(例えば実際クルマの運転を遠隔操作ですることは事故等の観点から許されることなのか、テロや犯罪などに使われる可能性等)、社会的な問題も内包しており、その部分でのハードルが存在する。とはいえハードウェアにおけるビジネスチャンスを考える時、もはやバーチャルに関してはネットサービスの潮流等を勘案すればほぼ出尽くした状態であり、よりリアルワールドに影響を及ぼすデバイス。液晶画面や音だけのOutputを越えて、手足の延長としてリアルワールドに影響を及ぼせるデバイスが残されたフロンティアと言えるのかもしれない。

また人同士のコミュニケーションデバイスとしての技術の発展は筆舌に尽くしがたいものがあるのだが、人工知能の分野ではまだまだ発展の余地が残っているのも事実である。例えばクルマの自動運転がそうであり、ロボットと人間のコミュニケーションもそうであろう。この分野はいまだ広大な領域が未開発である。とはいえ、この新しい分野のデバイスについての論考をする前に、文章、音声、映像という3つの要素に関して飽和した能力を獲得しつつあるスマートフォンを初めとしたデジタルデバイスが、今社会にどのような影響を与えており、また与えようとしているのかをまずは論考したほうが良いだろう。その部分を振り返り、今後どのような社会的な変化が起ころうとしているのかは現状認識として非常に重要なことである。次回はそのことについて語ろうと思う。

デジタルデバイスの未来2

-発達したデジタルデバイスがもたらす社会的変化-

近年のデジタルデバイスの進化がもたらした事として、ひとつには情報消費の大きな変化を挙げることができるだろう。過去、消費者が持っていた商品は主に再生側商品はであり、制作側商品といってもメーカーから提供されるものは、あくまでもアマチュア用のものであり、プロが持つものとはその質が全く異なっていた。例えばビデオカメラの世界において、過去プロの持つものはCCDの質や、実質的な解像度において、アマチュア仕様のものと明確な差があった。またプロはハイレベルな映像を動画で撮影する場合はビデオカメラではなく、映画用フィルムカメラを使うことが多かった点もプロとアマの差を明確に線引きしていたと言える。音楽の世界でも、アマチュアが持つシンセサイザーと、プロの持つもの、また録音環境も雲泥の差があった。ところが現在、この差は殆どなくなっている。例えば動画撮影においてはキヤノンが一眼デジカメである5DmarkIIに動画撮影の機能を付けたことはある意味エポックメイキング的な出来事だった。わずか20万のカメラが映画用フィルムカメラに代わり得るデバイスとして非常に注目され、プロもこのカメラのを使って作品を撮影しているのはプロとアマに機材の格差が殆どなくなりつつある好例であろう。もちろんそれより遙か前にはPCを使ったDTM、HDR環境の出現というものがプロの音楽環境とアマを分け隔て無くした事例もある。数千万もしたシンクラビアというサンプリングシンセの能力を遙かに越えた事が現在市販されているPC上で出来てしまう点を考えれば、音楽のプロがプロとして差別化できる環境というのは生演奏等に限られるものになりつつある。

また一方でプロとアマの格差を破壊した最大の出来事は、youtubeなどのネット配信だろう。過去プロの制作する作品は、基本商業メディアに載ることで広く世間に配信された。ポップスを配信する音楽業界が正にそれである。レコードやCDという物としてのメディアを如何に、どのような販路で販売し、配信するか、またプロモーション媒体としてのテレビやラジオの存在などのマスコミ対策を含め、トータルで作品を配信する大きなビジネスサイクルがそこには存在しており、ここにおいて如何にメジャーレーベルで楽曲を販売するかはプロとしての評価基準でもあったし、またどれだけ多くの人がその作品を聴くかの基準でもあった。映画も配給がどこの会社で、一体どれくらい多くの映画館で放映されるか等々、全てはメディアビジネスのルールの中で各々の作品がどれだけ多くの「媒体」にコピーされ、商品として販売されるか決まっていたのである。もちろん消費者の反応あってのヒットではあるのだが、そこで勝負するレベルに達するには必ずメジャーの世界に足を踏み入れない限り不可能だったといってもよいが現在はネットによってこの状況が大きく変わりつつある。

これらの出来事はあらゆるメディアにおいて言える事である。文章という面で見れば、昔の人々は書くよりも受け手として記事や小説などを読む時間の方が一般の人々は遙かに長かったが、現在はコミュニケーションとして発信する時間が随分増えた。それは掲示板への書き込み、チャットから始まり、ブログ、ツィッター、フェイスブックまで。仮に世界平均で一人の人間が一日に文章を読む時間と書く時間というものを30年前と現在を比較するならば相当な変化が起こっているはずである。また同じ「読む」割合も過去のプロが書いた雑誌、小説、新聞等よりも、現在では素人が書いたブログ、ツィッターのTLやフェイスブックのウォールを眺める時間の割合が確実に増えている。音声においても、映像の世界においても大体似たような状況が出現しつつある。

音というメディアにおいては、先に説明したメジャーの配信するCDと素人がネットで配信する音楽という切り口よりも更に俯瞰すれば、それは長電話やスカイプ等を介したコミュニケーションの割合が、今まで一人でラジオや曲を聴くという行為を浸食しつつあるとも捉える事ができるのである。もちろん音というものは所謂「ながら」鑑賞ができるものでもある(それが過去ウォークマンという商品を世界にあれだけ流行らせる要因にもなった)から映像と比較すれば、まだ開拓されきれていない状況にもあり、長電話と音楽鑑賞が被る事はあまりないかもしれない。

逆に問題なのは映像である。これはテレビという20世紀に最大の影響力をもっていたメディアであるが、視覚と聴覚の集中を視聴者に強いる点で、ある意味つぶしの効かないものになっているとも言える。テレビは20世紀半ばより三種の神器という言葉に代表されるように爆発的に家庭に入り込んで、一家に一台から、一人一台になるまで大きな影響力をもたらすメディアに成長したが、これこそ「一般=受け手」という構図の最たるメディアであって、逆にこれからの時代に最もそぐわないタイプのメディアになる可能性がある。現在のネットデバイスはあらゆる面でテレビとは対局のものであり、今までテレビが保持していた一般視聴者への影響力を着実に奪っている。これは何もUstream、Youtube、ニコニコ動画という音、映像の配信メディア同士の時間の奪い合いというより、端的に言えば、今までテレビを何気なく見ていた時間が、そっくりそのままネット内を徘徊する時間に変わったという言葉に象徴されるように、映像と音の複合メディアでありながら、いやあるが故に視聴者を放送時間で縛り、視覚と聴覚を縛る事が逆に徒になっている状態であり、マスメディアとしての最大に影響力を行使できるとされていた利点が、現在では受けのみの退屈なメディアという評価になりつつあり、将来にわたって視聴者の支持を得られるか、甚だ怪しい情勢になってきているのである。

結局のところ人間の1日は24時間で固定され、その中でこれら文章を読む時間、音楽を聴く時間、映像を見る時間をむやみやたらに増やせる訳ではない事を考えると、現在、プロの文章、音楽、映像の作り手は非常にキツイ状況に立たされていると言わざるを得ないだろう。物書きのプロは、ブロガーとの不毛な競争に、音楽や映像のプロは数多いる物量でやってくる素人との競争を強いられる。それどころかもっと根深い問題としてデジタルデバイスによって無限に行われる違法コピーとの闘いもプロにとってはマイナスにしかならないものであり、この点で費やされる不毛な労力は大きな打撃になっているし、これからもなり続けるであろう。

そのような問題を抱えながらもデジタルデバイス自体は、よりシームレスに人が見聞きした物を共有できる方向に進むはずであり、逆にここで著作権がらみのストッパーを付けてしまうと、それが足枷になり魅力ある商品でなくなるというジレンマを抱えることになる。地デジのB-casカード、コピーワンスなどはそのストッパーの最たる事例だろうし、地デジの企画自体もテレビという電波媒体を限定している点で時代遅れのものになっていくだろう。また現在の世界では一般が良いと思った番組や音楽もツイッターやフェイスブックでリンク込みで貼り付けられないようでは共感を得られない。過去のように大量の広告費を投入してCMを打ち、マスメディアに乗せる事が唯一のPR手段であり、且つ他も同じ土俵だった時代と全く違う時代になった訳で、その意味では少品種大量型のマスメディア上で成立した既存のビジネスサイクル、あるいは権利形態は多品種少量型の現在のネットにおいてあるべき形態と相容れないものになる。

そして流される映像等の「質」という問題でも大きな変革が起こりつつある。それは何十人もの人、何億もの資金を使い最高の作品に仕上げたはずのドラマやアニメが、素人が何気なく撮った飼い猫の動画に事実上負ける時代という説明が最も端的に現状を表しているかもしれない。正にマスメディアによって築き上げられたプロの作品を頂点とする価値基準が崩れ始めている現象といっても良い。そのことが良いか悪いかを問うつもりはないし、個人的には非常に悲しいことではあるが、これからの時代はひょっとしたら至高の価値、あるいは極められた芸といったものがなかなか育たない時代になってくるのではないか。人々は他者とのコミュニケーションに集中し、散文的なTLあるいはウォールを眺めながら、3行以上の文は読む気が起きず、1分以上の音や映像には堪えられない刹那的な感覚に埋没するのではないか。

こうして考えていくと現在進行しつつある変動は既存の美意識や権威の崩壊をも予感させる事態であり、次の時代への変化を見極める為には一度、マスメディアの進化について大きく振り返る必要があるのかもしれない。次回ではその点を掘り下げていこうと思う。
posted by mockmoon at 22:29 | TrackBack(0) | 日記
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